矢吹咲子のひとりごと

ひとりごとこそおもしろい

黄色

月、星、バナナ、レモン。ピカチュウふなっしー、たんぽぽ、ひまわり。

 

CAVI(キャビ)という血管年齢を調べられる検査がある。上腕と足首にカフを巻いて測定するとき、正確に測定されているか、4段階で判定している。

赤、黄、黄緑、緑。黄色のときは巻き直したほうがよい。


信号機。黄色はもうすぐ赤に変わる。だから止まれ。赤と青は長くても、黄色の時間は短い。

 


黄色は不安定な色だと思う。

 

買ったばかりの採れたて野菜。例えば長ネギ。青々としていて若々しい。時間が経つと、黄色みがかかって枯れてくる。

そのままさらに時間の経過とともに茶色く細くなり、最後は散る。

 

不安定だ。

 


しかし、黄色は美しく人を惹きつけるものでもある。

例えば紅葉。銀杏。

木々が黄色く染まると思わず宙を見上げてしまう。でも時が経つと、木々は枯れ、そして落ち、寒々とした冬になる。


黄色の状態の時、銀杏のように、その時を切り取り、安定しているかのように見せたい。

 

黄色は変化する色。不安定な色。

その後、よくも悪くもなる色。

そんな黄色を楽しめて、よりよくする変化の色にするのはその人次第だと思う。

情報

アーケードの角にあるエスカレーターを下っていくと、クラクションが鳴り響いているような空間に出る。

八百屋、魚屋、肉屋、テイクアウトのアイスクリーム店、立ち食い蕎麦、雑貨店、ドラッグストアがパズルのピースのように隙間なくはまり、整然と並んでいる。

買い物客が三々五々通りすぎ、店員の客引きの声が響き渡る。

視線はどこを向けばいいのだろうか。数歩進めば八百屋から肉屋になり、90度首を左に傾げれば魚屋がみえ、さらに数歩進むとアイスクリームを食べている人々に出会う。

 

視界が慌ただしい。情報量が多い箱。地下だから外とのつながりもなく、閉ざされた箱の中で右往左往してしまう。

情報はやって来ては流れ、またやってきては流れ去る。数歩進むだけで情報は入れ替わる。

目から入ったものが脳へ行き渡っている最中に、また新たに目から情報を取り込む。

脳にたどり着いた情報は、わずかな時間ですぐに削除される。ざるで水を掬っているようだ。

 

箱の中は情報で満たされている。その中で歩いていると、1秒も経たずに目まぐるしく移り変わる視界。

 

再びエスカレーターに辿り着く。地上へ向かう。

外に出ると、高層ビルが何棟も立っていた。すでに箱の中身のことは忘れてしまっていた。

情報は多いようで、記憶にも残っていない。

 

情報が少ないような箱。例えば田んぼが続く田舎道。砂利道で小石をひとつ蹴りながら30分歩き続ける。景色はそれほど変わらず、左右を見渡しても田んぼばかり。

情報なんて田んぼしかない。それでも景色が変わらないところにいれば、見たものは記憶されている。

文具店

商店街の一角に、昔ながらの小さな文具店がある。

 

いつでも賑わっている商店街。古いお店が閉店しては新しいお店ができ、テナント募集の貼り紙も所々に見かける街。

 

またすぐに、流行りの洗練された新しいお店ができるんだろうなと、新店に興味がありつつも、老舗が薄れていく感覚はどことなく寂しい。そんな気持ちを抱えながら毎日のように商店街を歩いている。

 

文具店は、他店と比べると薄暗く、白髪の老人を思い浮かべさせる店構えだ。

周りが白を基調としたスタイリッシュな店や、カラフルでいかにもSNS映えしそうな外観や内装の店があるから、コンクリートの床で奥に進むほど暗くなってゆく見た目は、失礼ながらも廃れていく感覚がぬぐえない。

入口から中を覗くと、出口のないトンネルのようだ。

 

外観も内観もお世辞にも光とは言えない文具店ではあるが、私はその場所を気に入っている。

 

 

必要に迫られ「原稿用紙」を買うことになった。

私は何でもスマホひとつで完結させる。1万文字ほどの書き物も、思考の整理も、ちょっとしたメモも。

手書きで紙に書くということはほとんどなくなった。

あるテーマを書く時に原稿用紙がどうしても必要で、デジタルとは遠く離れたようなこの文具店に入った。原稿用紙が確実に置いてあるような、昭和レトロ感のある商店と言い表すのが相応しい。

 

その場でもう一つ買い物をした。

結婚祝いの祝儀袋を探していた。

ふと、この店で買いたいと思ったからだ。お会計のとき、店主さんが購入したものに対して、一言会話を投げかけてくれるのだ。

 

その会話が欲しかった。

原稿用紙と祝儀袋を抱え、レジ前に向かう。店主さんは電卓を叩き、私は現金でトレーの上に小銭を置く。

そんな一連の動作をしながら、

「和紙のご祝儀袋、綺麗ですよねぇ」

店主さんが声を発した。

 

友だちの結婚式で、と会話のキャッチボールをしながらお会計が進む。

 

深い黄緑色の落ち着いた和紙をベースに、煌びやかな施しがされている袋。とても美しかった。

 

店主さんは、購入するものに対して必ず一言添えてくれる。それもお客さんも店主さん自身も喜ぶような。

和紙で丁寧に作られた祝儀袋はほんとうに美しかった。

店主さんの一言で、ここで売られている品物はどれも特別好きになるようにできている。

 

出口のない真っ暗なトンネルを入った先には、寒い冬に暖をとるような場所だった。

だからこの文具店に入るのをやめられない。

日記

知らない人の日記を心ゆくまで読みたくなるときがある。

このようにネット上にあがっているものは、星の数ほどある日記から見つけられれば読むことはできる。(それでも出逢わなければ読めないけれど)

しかし、手帳やノートに手書きで日記をつけている人のものは、どうしたって読むことができない。

それを読むには手順がいる。

手順とはとてもシンプル。はじめに、お会いした人に日記を書いているか聞く。次に、読んでもいいかと、許可をとる。それだけなのだ。

そこで交渉が上手くいったところで、その人の日記を読みたいかというと、読みたいとはあまり思えない。

交渉しているということは、その人に会っているからだ。会ったことのない知らない人の日記を読みたいという目的からずれてしまっている。

顔も知らない、声も知らない、そんな一人の人間が、確実に同じ世界で1日を生き、生活しているということを、日記を読むことで感じたい。

ごく普通の、(普通というのは、その人にとっての普通のこと)生活を垣間見て、どんなものを見て、聴いて、どのように感じているのかを知りたい。

言葉という道具を持っている人は、話せば心の中が少しだけわかる。顔を持っている人は、表情で心の中を少しだけ覗くことができる。

こんなに人が多い東京にいて、何百人もの人とすれ違っているはずなのに、知らない人の日記を読みたいという欲望は、深く人付き合いができていないことの表れなのだろうか。

個人単位では良いお付き合いができている人が多いと思うけれど、俯瞰してみるとどうなのだろうか。

何をみて、どのように感じているかを知るには、外側へベクトルを向けていくことが大切だと思う。両開きドアが閉じている人が多いから、言葉での会話も、顔での表情もどこか物足りなく感じられるのだろう。だから日記を求めてしまうのだ。

知らない人の日記を読むこともしたいし、私のドアは全開に開いて、街で知らない人の日記を読んでいるときと同じ感覚に浸りたい。

栗のパフェ

フルーツは宝石のようにキラキラしている。

赤、黄、白、オレンジ、黄緑色。色とりどりな透き通ったキューブ状の結晶は、五感を喜ばせてくれる。

私はフルーツを愛している。

 

フルーツを求めるときは、身体と心が強張っているときが多い。

良いときと悪いときの手持ちの振り子が、悪いときに振れているとき、それがなかなか良いときに振れてくれないとき、フルーツパーラーへ行く。

『いちごは心の平穏をつくる』としたり顔で言う私に付き合ってくれる、気前がいい友人を連れて。

 

10月朔日。秋。

季節限定に弱いのは、有限の命をもった生命体だからなのか。

今の時期にしか食べられないから食べて!とコロンと可愛らしい栗たちに言われてしまえば、頼まざるを得ない。

 

小布施栗のパフェが、立派なタワーのように目の前にやってきた。

栗づくし。今回のパフェの王様である、栗たちのほかに、バニラアイスクリーム、ホイップクリーム、栗のジュレ、ウエハースなど。

 

半日の仕事を終えて、お昼ごはんの代わりに冷たくて甘い栗のパフェを友だちといただいた。

 

「おいしいね」

 

自然と口元が綻んできて、すっと心が軽くなる。

重い心をもった身体でいるときは、喋ると楽になるというけれど、そうとも限らない。

 

「おいしいね」

 

友だちは呟くわけではなく、同意を求めるわけでもなく、激しく感動している感じでもなく、淡々としているわけでもない。

ただ、食べ始め、食べ途中、食べ終わりと定期的に「おいしいね」と語る。

 

「うん、おいしいね」

 

私は目の前の、心の救世主である栗のパフェを食べて答えた。

 

抱えきれないこと、どこから手をつけたらいいかわからないこと、曖昧で答えが出ないことを持ち続ける不快感があると、それを他者に話すことで外に出して楽になることもあるかもしれない。

 

けれど、食べたものを「おいしいね」と言えたら、今の幸福を逃さず味わっていることになる。

 

栗のパフェだけが救世主じゃない。

「おいしいね」が口から溢れたら、心はどこかに行っていない。心は今の時間と一緒にそこにあるからきっと大丈夫。

 

抱えきれないものは栗のパフェの中には入っていない。栗のパフェには「おいしいね」しか詰まっていない。

その「おいしいね」に集中しよう。余分なものが削ぎ落とされていく感じがする。波が引いていくように。

ショパンのノクターン8番

今日から7月。都内は最高気温が37度ととても暑い。体温を超えている。「暑い」という形容詞は37度で使うのは間違っている気がする。30度くらいが、適切な暑いという使い方(だと思っている)。だから、この時代に合った新たな形容詞が生まれてもよさそうだ。

3ヶ月ぶりにピアノのレッスンに行った。レッスン日を決めないと練習しないのはいつものこと。なんでも期限を決めないとやらない。きっと誰もがそうだと思う。

テスト前に短期集中して勉強するように、ピアノの練習も短期集中型だ。平日の月から木曜日の4日間、超短期集中のピアノと触れ合い今日本番(レッスン)だった。

自分の中では、1週間前と比べたらとても、かなり、相当、上手くなっている。1週間前、音楽の流れもなかったところが流れていたり、弾けないところが少ししかない。

しかしながらレッスンに行くとあまりにも弾けていないと自覚してしまう。決して先生に「なんで弾けてないのに来たの。全然練習してないじゃん。音違いすぎるんだけど。」とか言われたわけではない。誰もそんなこと声に出して言っていない。完全なる被害妄想だ。想像と妄想は特技だが、現実ではない被害妄想はときに何も起こっていない現実を悪い方向へ変えることがある。被害妄想、ダメ、絶対。

ただ、レッスン後の私の頭の中で、それよりもっと酷い言葉が響いてきてしまっていた。

「全然弾けてないじゃん」

私の中の分身のひとりがこのセリフをフォルテで言っている。

他の分身たちは、数日とはいえ毎日練習したし、確実に弾けているところは増えたし、身体も覚えはじめたし、十分よくやったよ!と褒めてくれているのに。

ひとりの厳しい分身の言葉が気になりすぎて、レッスン後、悔しいとシンプルに思っている。

そんなわけで、レッスン直後の悔しさを敢えて忘れないようにするため書き綴っている。

切り替えが早く、飽き性なので悔しい気持ちもきっと長くは続かない。

「私ならもっとできるはず」と分身のひとりが言っているので、7月は毎日10分でもピアノ(電子ピアノだけれど)に触れることにする。

1ヶ月後には、今日みてもらったショパンノクターン8番を、自分が聴いても「弾けてるじゃん!いいじゃん!」と思えるように楽譜や鍵盤と関わるようにする。分身に納得してもらえるように。

ピアノ日記ほどまではいかないけれど、「今日やったこと」のメモ書きを毎日綴っていけたらと思う。

明日は、楽譜に小節番号をふる作業をする。レッスン時に小節番号で指示があることがあったから。

ブラインドタッチ

楽譜を見ながらピアノを弾くことが苦手だ。いや、苦手というよりできない。

そのため、初見演奏はもちろんのこと、譜面を見なければ止まらず音ミスもなく弾ける曲も、鍵盤を見ないとなると、歩き始めの幼児のようになる。

なかなか弾けるようにならない。何十回やってもヨタヨタ歩きが治らない。

だから練習の数をこなしていくうちに、結局は覚えてしまう。譜面を見ると弾けないけれど気づけば頭で暗記してしまっている。楽譜なしで流れるように弾けるようになる。

しかし、音楽的に弾けるようになるまでにものすごく時間がかかる。指に覚えさせるための時間、何度も繰り返し同じパッケージを練習する時間。曲のイメージと色あい。これらを身体に染み込ませるために時間を費やすのだ。

この時間を省くには譜面を見ながら弾くことができる方がいい。それに、譜面を見ながらすぐに弾ける人は驚くほどたくさんいる。これがピアノを弾ける人だと私は思っている。

こんな人を見てしまうと、私の人生の時間の100倍くらいは生きている人なんだろうなと思い、俄然羨ましくなる。

ただ、すぐに弾けて楽しいのだろうか、という疑問も出てくる。

太鼓の達人のように、少し先を読み、その通りに鍵盤上で指を素早く動かす。リズムや音を正確に読み、フレーズの流れをわかって弾く。脳の情報処理能力が高い人なんだろうと思う。

譜面を見ながら(特にほぼ初見の曲を)弾ける人は、私のなかでいつでもアインシュタイン並みの天才だと思っている。

ピアノのブラインドタッチができなければ、パソコンのキーボードのブラインドタッチもできない。

それなのに、毎日やっているエコー機の左手の操作はブラインドタッチをしていることに気づく。ただ、エコー機は指一本でボタンを操作すればいいから、ピアノの鍵盤とはまた少し違う気もする。でもエコーはモニターを見ながら右手で映したいように角度を微調整し、左手で流速を測ったり、動画を入れたりしている。確実に手元はみていないんだよなぁ。

ピアノでもできればいいのに、とずっと思っているけれど、そんなこと言ってたら人生終わりそうだから、結局は我流で、まずは一小節、どんな手を使ってでも(譜面をみてもみなくても、鍵盤にかじりついても)最高に美しく弾くことを心がけて練習するしかないのである。

なぜこのように、定期的にブラインドタッチの言い訳をしているのかというと、私がやっとの思いで100m走り切ったときに、隣で誰かが、いとも軽々と10km走り終わっていた感覚だから。同じ時間でこれだけの差がついてしまうと、馬鹿馬鹿しく感じてしまう。

だから、最近は10km走る人がわんさかいる事実を歪曲し、人類はじめて100mを走り切る人かのような気持ちでピアノの練習をしている。

人類至上はじめてこの曲を弾く人であれば、どんな手を使ってでも精一杯楽しんで、かつ、なんとしてでも弾いてやろうと俄然やる気が湧き上がる気がしている。