矢吹咲子のひとりごと

ひとりごとこそおもしろい

栗のパフェ

フルーツは宝石のようにキラキラしている。

赤、黄、白、オレンジ、黄緑色。色とりどりな透き通ったキューブ状の結晶は、五感を喜ばせてくれる。

私はフルーツを愛している。

 

フルーツを求めるときは、身体と心が強張っているときが多い。

良いときと悪いときの手持ちの振り子が、悪いときに振れているとき、それがなかなか良いときに振れてくれないとき、フルーツパーラーへ行く。

『いちごは心の平穏をつくる』としたり顔で言う私に付き合ってくれる、気前がいい友人を連れて。

 

10月朔日。秋。

季節限定に弱いのは、有限の命をもった生命体だからなのか。

今の時期にしか食べられないから食べて!とコロンと可愛らしい栗たちに言われてしまえば、頼まざるを得ない。

 

小布施栗のパフェが、立派なタワーのように目の前にやってきた。

栗づくし。今回のパフェの王様である、栗たちのほかに、バニラアイスクリーム、ホイップクリーム、栗のジュレ、ウエハースなど。

 

半日の仕事を終えて、お昼ごはんの代わりに冷たくて甘い栗のパフェを友だちといただいた。

 

「おいしいね」

 

自然と口元が綻んできて、すっと心が軽くなる。

重い心をもった身体でいるときは、喋ると楽になるというけれど、そうとも限らない。

 

「おいしいね」

 

友だちは呟くわけではなく、同意を求めるわけでもなく、激しく感動している感じでもなく、淡々としているわけでもない。

ただ、食べ始め、食べ途中、食べ終わりと定期的に「おいしいね」と語る。

 

「うん、おいしいね」

 

私は目の前の、心の救世主である栗のパフェを食べて答えた。

 

抱えきれないこと、どこから手をつけたらいいかわからないこと、曖昧で答えが出ないことを持ち続ける不快感があると、それを他者に話すことで外に出して楽になることもあるかもしれない。

 

けれど、食べたものを「おいしいね」と言えたら、今の幸福を逃さず味わっていることになる。

 

栗のパフェだけが救世主じゃない。

「おいしいね」が口から溢れたら、心はどこかに行っていない。心は今の時間と一緒にそこにあるからきっと大丈夫。

 

抱えきれないものは栗のパフェの中には入っていない。栗のパフェには「おいしいね」しか詰まっていない。

その「おいしいね」に集中しよう。余分なものが削ぎ落とされていく感じがする。波が引いていくように。