矢吹咲子のひとりごと

ひとりごとこそおもしろい

日記

知らない人の日記を心ゆくまで読みたくなるときがある。

このようにネット上にあがっているものは、星の数ほどある日記から見つけられれば読むことはできる。(それでも出逢わなければ読めないけれど)

しかし、手帳やノートに手書きで日記をつけている人のものは、どうしたって読むことができない。

それを読むには手順がいる。

手順とはとてもシンプル。はじめに、お会いした人に日記を書いているか聞く。次に、読んでもいいかと、許可をとる。それだけなのだ。

そこで交渉が上手くいったところで、その人の日記を読みたいかというと、読みたいとはあまり思えない。

交渉しているということは、その人に会っているからだ。会ったことのない知らない人の日記を読みたいという目的からずれてしまっている。

顔も知らない、声も知らない、そんな一人の人間が、確実に同じ世界で1日を生き、生活しているということを、日記を読むことで感じたい。

ごく普通の、(普通というのは、その人にとっての普通のこと)生活を垣間見て、どんなものを見て、聴いて、どのように感じているのかを知りたい。

言葉という道具を持っている人は、話せば心の中が少しだけわかる。顔を持っている人は、表情で心の中を少しだけ覗くことができる。

こんなに人が多い東京にいて、何百人もの人とすれ違っているはずなのに、知らない人の日記を読みたいという欲望は、深く人付き合いができていないことの表れなのだろうか。

個人単位では良いお付き合いができている人が多いと思うけれど、俯瞰してみるとどうなのだろうか。

何をみて、どのように感じているかを知るには、外側へベクトルを向けていくことが大切だと思う。両開きドアが閉じている人が多いから、言葉での会話も、顔での表情もどこか物足りなく感じられるのだろう。だから日記を求めてしまうのだ。

知らない人の日記を読むこともしたいし、私のドアは全開に開いて、街で知らない人の日記を読んでいるときと同じ感覚に浸りたい。